近田 春夫 2020/04/16
source : 週刊文春 2020年4月16日号
『ノーシナリオ』(内田真礼)/『春はゆく』(Aimer)
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気がつけばアニメ/声優勢の、jpop界に於ける幅の利かせかたといったら、もうものすごいものにもなっている訳で、私などのような疎い人間からすると、なにかいわゆるアイドルとも違う、また自作自演のシンガー/ソングライターたちとも違う、そこには独特に一貫したアイデンティティのあるのやらないのやら、どこかモヤモヤとした気分でジャンルを一括りにして眺めてしまっているところもある。以前、上坂すみれを取り上げた回でも書いたが、結局は、その本質とは地味な仕事――そもそも、かつて声優とは劇団員のバイト的な様相も強くみられ、そんな関係で、今のようには世間に姿を晒さぬ匿名的な職場だった――だという“ひかえめな自意識”を持つ、いい換えれば“アルチザン的体質”というものに集約される部分は、あるのやもしれぬ。
いずれにせよ、少なくとも、アイドルを目指すのと声優を目指すのとでは、微妙にだが、動機は異なるようにも思える。
内田真礼(まあや)は、アニメ・ゲーム好きが高じて声優の専門学校の門を叩きその道に進み歌手もこなすというまさしく“専門職”のキャリアを誇る、その筋では知らぬもののない存在なのだそうだが、そんな履歴ひとつを見ても、実に手堅い。それは、比べれば、何よりも“人気者”になることを最大の目的として華やかな業界に飛び込んでくる、アイドル志望者たちとは――繰り返しになるが――生き方/人生哲学が違うといっても、決して過言ではあるまい。
そうした先入観も手伝ってか、『ノーシナリオ』を聴いてまず受けたのが、素の自分というより、仕事で与えられたキャラクターになりきって、一種芝居として歌っているようなそんな印象だった。殊更にあどけないのである(まぁ、そのあどけなさこそ、ある層にはたまらない魅力、売りなのだろうなということも、またよくわかるのだが……)。
そして思ったものである。この曲をバリバリのアイドルが歌ったらどうだったろう。おそらくこうはならなかったのではないか? というのも、どんな楽曲であろうと――強引にでも――リアルな自分をその主人公に投影して精一杯アピールしてみせるのが、彼女たちに求められている“役目”とも思われるからである。
===== 後略 =====
全文は下記URLで
>「芸は売っても体は売らぬ」
この部分で笑ってもーた。すまぬ
AVよりはマシなのか
遅いわ!
今は、顔やスタイルまでもとめられるのに大丈夫か?
あれ番組としてはクッソつまんなかったもんな。
アイドルじゃなく声優ですから
美足たそ~
京アニのファントム・ワールドで声で攻撃する変なキャラをやられていた時は、何とも思わなかったし
今も新サクラ大戦の変な男女みたいな巫女キャラをやってんだ・・・くらいにしか思っていなかった
しかし、カタリナが良すぎて良すぎてw
脳内カタリナ会議は最高だね
カタリナでまた人気が出たな。